循環・共生の経営

<このページは>

  21世紀に向けた人類最大の課題は地球から野放図に資源を採取し、加工、販売、廃棄するという「線形経済」をやめて「循環型社会」に転換することです。これには「共生」の思想が欠かせません。多くの経営者が「共生」を口にし、エコロジーを経営の取り入れはじめてますが、なかなか地球環境は良い方向に転換できません。21世紀に緑の地球を子供たちに受け継いでゆくためには「シャロー(皮相)エコロジー」ではなく「ディープ(深層的)エコロジー」に転換することが必要だと言われています。こうした価値観に立って「循環と共生」の経営に向けて努力されている企業の事例をご紹介するとともに、私見を述べさせて頂きます。

  「今こそCSR体制を構築しよう」(2008年 法人会)

1,小さな不正が命取りにつながる

昨年ほど企業の不祥事が取りざたされた年はない。一流の老舗や著名特産品の消費者欺瞞に、一般消費者は「まさか」と「やっぱり」が混ざった複雑な思いに言葉を失った。社会貢献で知られた地域の代表的な企業までも巻き込んだ不祥事の続発を対岸の火と見ることなく、私たち企業経営者の連帯責任と受け止め、何としても止めなければならない。

近年の不祥事続発の背景にはステークホルダー(企業の利害関係者)の変貌がある。その一つはステークホルダーの広がりである。これまで@得意先、A仕入・外注先、B金融機関、C従業員、D国家公共機関、E株主等がステークホルダーとされていたが、近年の環境問題の高まり等を背景にF地球環境、G地域市民等が加わった。「地球の裏側に済む動物」も、「未来」さえもステークホルダーと考えられるようになった。目先の企業利益だけを考えれば良い時代ではなくなっているのである。

第2に、ステークホルダーが「もの申す」ようになったことがある。LOHAS意識の高い市民やNPOが企業をウオッチし、また、従業員も市民の一人という観点から勇気をもって内部告発するようになった。これまでは、社長のやりかたに文句を言う社員を切ってきた社長が、正義感の強い社員たちから切られる時代に変わったのである。

このことを軽く見て、経営姿勢を変えない経営者が問題を起こしているのである。残念ながら、発覚した不祥事は氷山の一角に過ぎないのではないかと懸念される。例えば、北海道の「ししゃも」や宍道湖の「しじみ」は、販売量が実際の水揚げ高をはるかに超えると言われる。耐震強度偽装事件の後、鉄の価格が上がったのは中国需要だけではなく、建設業界がきちんと建物を造るようになり鉄の需要が増えたからという話もある。一昔前なら問題とならなかった「その程度はしょうがない」「どこでもやっている」という常識はすっぱりと捨てなければならない。

この意味で、不祥事で話題となっている企業は、多くの企業に目を覚まさせ、正しい経営に立ち戻らせる役割を果たしてくれている、と言えなくもない。これら企業を批判するのではなく反面教師として、すべての企業がこれまでの経営のやり方を見直して「企業の社会的責任(CSR)」を改めて自問するべき時に来ている。
 

2,コンプライアンスの担保は経営者の姿勢

 企業の社会的責任(CSR)は3段階のステップがある。第1はコンプライアンス(法令遵守)で「法令等で決められていることを守ること」。第2段階が企業倫理で、「法で禁止されていなくとも、良くないことはやらないこと」。そして第3段階の社会貢献は「法で実施するよう定められていなくとも、良いことはやること」である。まず、第1のコンプライアンスから取り上げよう。

 企業の不正を防止するために、先進企業はCSR部門の設置し、企業行動憲章の制定、内部統制の強化、ISOの認証取得、諸規則の見直しなどに取り組み始めている。国も日本版SOX法と言われるさまざまな規制を設け、また、公益通報者保護法など不正を摘発しやすい環境を整えた。法律や業界ルール、社内規定の整備の必要性を疑うわけではないが、これで不正を完全に防げるかと言えば疑問である。それは、昨今の不祥事の多くが経営層主導であるか、主導ではなくとも認知していたことだからである。社員がルールを守らないのではなく、トップ自ら不正を犯していることに問題の核心がある。

大事なことは経営層の姿勢であり価値観である。この転換なくしてCSRの確立はない。京セラの稲盛会長は経営判断に当たって「動機善なりや、私心なかりしか」を問うという。経営者自らの心に問うて「損得ではなく善悪で判断する」ことが欠かせない。その経営層の理念が遵法の精神や、後に述べる企業倫理、社会貢献の組織風土を作るのである。

コンプライアンス型アプローチと言われる規制強化では不正はなくならない。ヴァリュー・シエアリング型アプローチと言われる、正しい経営の価値観を社員みんなで共有することが不正防止やCSRの決め手と言って良い。

 

3,小さいことを武器に企業倫理から社会貢献へ

 CSRの第2段階の企業倫理は「法で禁止されていなくとも良くないことはやならい」である。当たり前のように思えるが、実は、これがほとんどできていない。例えば、合成洗剤はアトピーへの影響が懸念されており湖沼汚染の原因でもある。出来るだけ使わない方がいいし、使うとしても減量を心がけたい商品の一つである。しかしメーカーも販売店も環境負荷の少ない石けんを推奨することなく合成洗剤の拡販に走ってきた。

 農家は、自家用の米や野菜は無農薬・減農薬で栽培しながら、販売用はしっかりと農薬・化学肥料を使った慣行栽培である。また、廃車の適正処理施設を持たない国々に輸出される中古車が環境汚染の原因となっている事実がありながら中古自動車の輸出が急増している。この背景には、元の所有者が支払ったリサイクル料が輸出業者に戻ってくることがある。

これらは倫理的行動と言えるだろうか? いずれも適法であるが、これによって地球環境や私たちの健康が確実に損なわれていくのである。そのことを多くの企業は知っていながら売上・利益のために環境や健康を犠牲にしている。

 こんな中で真正面から対応している企業もある。北九州のシャボン玉石けんは、自社が製造していた合成洗剤が環境汚染の原因となっていることを知って、合成洗剤から撤退、赤字覚悟で石けん製造に転換した。農業では無肥料栽培のりんご農家、木村秋則氏の指導のもとに、米、野菜、果樹の無農薬・無肥料栽培が広がってきた。また、先進的な自動車解体業者が自動車リサイクル技術をもたない国々に解体技術やリサイクル制度の支援を始めている。これらは皆、中小企業ばかりだ。

 CSRの第3段階「法で実施するよう定められていなくとも、良いことはやること」という社会貢献活動も同様である。会社周辺の道路清掃から公園・学校のトイレ清掃、植林活動、廃油の回収・リサイクル、割り箸回収、感謝祭など、中小企業による社員総出の社会貢献やボランティア活動が増えている。そして、こうした中小企業を支援する市民の増加がこれら企業の業績を押し上げている。

 とかく企業は大きくなると大企業病が蔓延しがちで、責任の空洞化も起こりやすい。これに対して中小企業は志の価値観を共有できるという長所がある。小さなことを武器とし、コンプライアンスはもとより、企業倫理の遵守、社会貢献活動の展開につなげていきたい。

 

   私を変えた母への挨拶 (2008年、 モラロジー)

「君は両親に挨拶しているか?」

「いいえ」と答えたとたん、先生は烈火のごとく怒り机を叩いて言われた。

「親に頭の下がらない者がどうして人に頭が下がる。人に頭の下がらない者がどうして人の指導者たり得よう。うちは専門家はいらん。‘専門家たる前に人間たれ’というのがわが事務所の所訓である!」と。面接試験で薄衣(うすぎ)先生から落とされた雷である。

 大学卒業後、経営コンサルタント会社に入社したものの仕事に疑問を感じて退職。浪人しながら大学時代にかじっていた公認会計士試験に挑戦したのだが失敗した(と思った)。

 何とか職にありつかねば、と藁をも掴む思いで面接に行ったのが薄衣公認会計士事務所であった。ところが、訪問日の直前に公認会計士試験の合格通知が来たのである。「しまった」と思った。当初から「試験に合格したらアーサーアンダーセン(外資系監査法人)」と決めていたからだ。しかし、後の祭り。ひやかし半分に薄衣事務所を訪問したのであった。

 薄衣先生は延々と私を叱りつづけた。先生の東北弁はほとんど理解不能。正座の足もしびれてきた。なのに「何としてもこの先生の指導を仰ぎたい」と思うようになった。

先生の言葉がちょっと切れた時、私は両手をついてお願いした。「来年出直してきますから、もう一度、面接してください」。先生は入所を許可してくれた。しかし「それでは来週、両親と一緒にもう一度来なさい」の命令に私は言葉を失った。両親を連れてくるのは何とかなるとしても、両親と、どうやって挨拶したらいいのか? 途方にくれた。

 まず母である。翌日も翌々日も挨拶できなかった。4日目か5日目の朝、6畳間に入ったら向こうの襖を開けて母が来た。「今だ!」「このチャンスを逃したら一生、挨拶できない」と思った。すれ違いざまに「お母さん、おはよう!」。びっくりした母は振り向いて「しげる・・・おはよう・・・」。「やった!」。腰が抜けた。とにかくやったのだ。

 現在まで、人並みの生き方が出来るようになったのは間違いなく「あの一瞬」のお陰様であると感謝している。

 

   経営者は心に栄養を (2007年、仙台法人会)

1,企業発展の決め手は人格能力

 企業の善し悪しは経営者で決まると言われる。経営者とは、その能力であるが、能力には職務能力と人格能力の2面がある。前者は知識・技能・体力であり、後者は人間性である。人間性は「こころ」と言い換えても良い。職務能力と人格能力は車の両輪に例えられるが、「心が肉体を左右する」と言われるように人格能力が職務能力に優先する。

 小職は宮城大学に奉職するまで公認会計士として幾多の倒産企業の再建業務に携わっていた。そこで気づいたことは行き詰まる企業は決まって経営者の人格能力に問題があることだった。恩師である薄衣佐吉先生は人格能力を人の発達心理になぞらえて「自己中心性」→「自立準備性」→「自立性」→「開拓力」→「指導力」→「包容力」→「感化力」と高まっていくという仮説を立て実証したが、行き詰まる経営者のほとんどは「自己中心性」「自立準備性」であった。そうした心が‘思いつき’‘社員を大切にしない’‘取引先を裏切る’という自己中心の行動に表れ、業績の低迷を引き起こしていたのである。「開拓力」「指導力」といった高い人格能力を持った人はほとんどいなかった。反対に繁栄している企業の経営者ほど「開拓力」「指導力」「包容力」など高い人間性を培っていた。

2,人格能力はどうして成熟しないのか?

 誰でも肉体は年齢とともに成熟していく。若いうちは「成長」と言い、歳をとると「老化」と言うが、いずれも「成熟」という点では変わりない。これに対して心は歳とともに成熟していくわけではない。これを職務能力と人格能力に当てはめれば、職務能力は経験を重ねることで成長するが、人格能力は経験を重ねても成熟するものでないということだ。行き詰まる会社の経営者は、職務能力は高くとも、おしなべて人格能力が低かった。

では、職務能力は成熟するのに、なぜ人格能力は成熟し難いのだろうか? 小職はこれを「栄養」の問題と考えた。すなわち、肉体は食事を摂ることで成熟する。言うまでもなく人は生きていくためには食べなければならず、食べることにより肉体は成熟する。これに対して心の栄養は摂らなくとも生きていける。心に栄養を摂る人は人格能力が高まっていくが、心に栄養をやらない人は人格能力が高まらないのである。人の上に立つ人ほど心の栄養を十分に摂って人格能力を高める必要があるということだ。

3,心の栄養は「内省」

 肉体の栄養は食物である。食物は外部から摂る。これに対して心の栄養は主として内部から摂る。すなわち「内省」である。この内省をサポートするのが外部からの栄養としての読書、研修参加などである。修行僧の滝行、座禅、瞑想などは、みな自己を律するためである。いい経営者は決まって内省型である。中には超ワンマン型の優れた経営者もいるが、こういう経営者は独断専行型であっても決して自己中心性ではないことに注意したい。

 これに対して企業を行き詰まらせる経営者は例外なく「自己中心性」が強い。いわゆる「俺、俺」の「我」が全面に出るから他と調和し難いのだ。また問題をありかを他に求める「他責」の傾向が強すぎる。このために取引先や従業員など企業を取り巻くステークホルダーと信頼が築けず、結果として企業の発展が阻害される。

 これらはすべて「内省」の不足に起因する。「内省」しか自分の心を高めるものはないと言って過言でない。私たちの回りに起こることはすべて原因があっての結果であると受け止めて、自己中心の心と行動を変えればすべての問題は解決する。小職の体験でも倒産から立ち上がった経営者は、再建の要因を「すべては我が反映と受け止めたこと」と言い切っていた。新しい年を「内省」の年として経営革新を断行したい。

 

   今こそ経営理念の浸透を (2003年、仙台法人会)

 100人ほどの社長に聞いてみた。「社長のところでは、社員が会社の経営理念を理解していますか?」「そーね、ほとんど理解しているよ」。次の質問「社員は経営理念に共感していますか?」「共感? ウーン・・・670点かな」。最後の質問「その経営理念は社員の行動の拠り所となっていますか?」「それは難しいね。340点というところだね」。

 これは、私が社長に会うたびに聞いてきた結果である。どこの会社も立派な経営理念を持っていても、それが社員に浸透していないということが良くわかる。

昨今、企業の不正が相次いでいる一方で、売れない時代とは言いながら、主張のはっきりしたこだわりの商品やサービスに顧客は集まっている。経営理念が浸透している企業と、そうではい企業の違いがいっそうはっきりしてきたと言える。今のような供給過剰の時代ほど、お客様の心を打つもの、感動を与える対応が求められているのだ。

ところで、経営理念と言っても正文化されたものや額に掲げられたものだけではない。経営者が常日頃念頭に置き、言葉に出している考え方や価値観のことである。理念の「理」は「理論」や「ことわり」の意であり、「念」は「今」の「心」と書くように「こんな経営をしたい」という想いこそが経営理念である。この想いが社員と共有できると企業文化となり、その文化が企業を強くする。大事なことは理念を共有することである。

最近の体験を少し書いてみよう。秘湯と言われる某温泉に行ったときのこと。朝食後、一風呂あびよう、と思って風呂場に行ったら「清掃中」の立て札。「少し待ってください」と言われ、ガラス越しに清掃の様子を何気なく見ていた。すると、柄のついた「たわし」で洗い場の床を磨いていたスタッフが、やおら、その「たわし」を湯船につけてじゃぶじゃぶ。そして床をゴシゴシ。ジャブジャブ、ゴシゴシ。これが秘湯? お風呂に入るのを止めて部屋に戻ったのは言うまでもない。

有力地方銀行の小さな支店。わずかな預金を下ろしたかったのだが、お客が少なかったので、ATMを素通りしてカウンターに行った。すると女性職員はATMを指さして「あちらで下ろせますので」。「いや、ここでやってほしいのですが・・・」「ATMの方が便利ですから」。そのうちに、中から年輩の男性職員が出てきて「一緒に行ってさしあげましょう」(誰がATMの操作法を教えてくれと頼んだ!)

ある空港のレストラン。お金を払おうと思ってレジに行くと、そばに「個人別の精算はご遠慮願います」の小さな立て札。お金を払いながら「ねえ、この立て札、失礼だよね。二度と来たくなくなっちゃうと、店長に伝えておいてよ」と私。とたんにレジの女性の顔がプーと膨らんだ。「ダメよ、そんな顔しちゃ。せっかくの美人が台なし。」と言ったら、やっと笑顔が戻った。

 いずれも最近、小生が出会った小さな事例である。このような事例は枚挙にいとまがない。「お客様第一」「顧客満足」を唱えながら、現場でこんな対応をしている会社がいっぱいある。これでは売れなくて当たり前だ。

 いま、経営者にいちばん求められているのは「経営理念の創造」ではないだろうか。お客様の心の豊かさに奉仕する明確な経営理念を掲げること。そして、それを社員のみんなと共有すること。お題目でなく、現場の隅々まで理念が浸透しているか、経営者は現場に足を運んでお客様の生の声を汲み上げてほしい。

 

   「顧客志向」だけでいいのか?  (2003年 仙台法人会)

「ユーザーニースへの対応」「顧客への限りないアプローチ」など、顧客志向は企業発展の大前提とされてきた。顧客志向が重要なことに異論はない。とりわけモノが溢れかえっている供給過剰の経済下では、顧客にそっぽを向かれては企業の発展はないからだ。顧客の心をとらえるデザイン、驚きや感動を呼び起こす商品・サービス、合理性や便利さを売り物にしたシステムを提供する企業が発展しているのは事実である。

しかし、ユーザーが求めるものを作って提供すれば、それでいいのだろうか。現代の混迷、具体的には地球環境問題や家族・地域コミュニティーの崩壊などは、企業がユーザー志向を追求し過ぎた結果と言えなくない。あえて厳しい言い方をすれば、売上・利益・シェア第一主義に走った企業が消費者を「王様」とおだてあげ、必要のないものまで欲望を喚起させ、消費を喚起しつづけてきた結果と言えないだろうか。

消費社会を促した企業戦略のキーワードは「便利さ」「快適さ」「美しさ」「ぜいたく」「おしゃれ」などである。石鹸よりもきれいになると合成洗剤を勧め、日持ちがして便利だと保存剤をたっぷりと使った加工食品を提供し、高級感を訴えて世界中のブランドを持み込み、当座のカネが不足すればサラ金がいつでも用立てしてきた。それが「ユーザーニーズ」だと言って。その結果が地球環境の破壊や健康の阻害、地場産業の停滞や自己破産者の増大である。家族の崩壊や学級・学校崩壊、地域コミュニティーの崩壊もこれらの犠牲に他ならない。

こうした、企業が図らずも社会に与えてきた損失は、企業が負担せず社会に負担させているという意味で社会コストと言われる。社会コストは企業活動が与える環境負荷の意味で使われることが多い。しかし、それだけでない。例えば、訴訟問題に発展しているタバコ被害のように、商品・サービスに付随的にあるいは意に反してもたされる損失や、不整備な環境の中で働くことにより被る肉体的、精神的負荷や、文化・伝統や景観が壊されていく損失などきわめて多岐にわたる。

「豊かさの中の貧困」の言葉のとおり、20世紀を通じて物質的な豊かさの反面で心の貧困や地球環境の破壊を招いてきた。その原因が、私たちが信じてきた「地球は無限である」「モノの豊かさが幸せをつくる」という大きな誤解にあることが最近になって分かってきた。すなわち私たちが享受してきた物質的豊かさ以上に、その弊害が大きかったということである。言い換えると企業本来の目的である商品・サービスの便益を上回る社会コストが発生していたということに他ならない。

地球は有限であり、モノの豊かさは本当の幸せと別の次元であることが分かった以上、一刻も早く私たちのライフスタイルを転換しなければならない。そして、それを促すのは企業のはずである。何よりも企業が生み出す社会コストを極力なくす、あるいは減らす努力をすることである。さらに、便利で贅沢な生活に慣れてしまった消費者に迎合するのではなく、地球と調和した、心豊かな生活を取り戻すために、商品サービスの供給を通じて正しい生活者教育をすることこそ企業の新たな使命と考えなければならない。

 

  提言「地球環境と調和した感動の経営を」(東北21:東北経済産業局、2002年2月)

 日本経済は本年で6年連続マイナス成長となる見込みである。この原因は不良債権問題や財政破綻など、将来への不安が増長し消費が落ち込んでいるためとされ、抜本的な景気対策を求める声が日増しに高まっている。しかし、いま、景気対策や経済成長が本当に必要なのなのだろうか。この不況を「物質偏重の生活から脱皮して、地球環境と調和した感動を呼び起こす経営」に転換すべしという啓示と受け止めるべきではないだろうか。

 20世紀の消費社会は物質的な豊かさをもたらした反面、地球環境の破壊とコミュニティーの崩壊をもたらした。この反省に立って21世紀は地球環境と調和した、心の豊かな生活にライフスタイルを転換することが求められている。それは、より少ないモノや消費エネルギーで豊かに暮らす「少欲知足」の生活でもある。こうした生活者教育も企業の大事な使命とされなければならない。しかし現実は、相変わらず売上・利益獲得を目指して浪費を押しつける、力づくの経営戦略を展開している企業が多いのは残念なことである。

消費者金融業界もその一つである。自動契約機がゲーム感覚で安易な借入金を助長したという非難をあびた消費者金融が、いま、2030代をターゲットにしているという。広告宣伝を控えてきたこの業界が、大手4社だけで800億円の広告費を投入している。これほどの広告費をかけて金を貸さなければならないほど20代の若者は金欠病なのだろうか。今の日本はそこまでして消費を増やし経済成長を追わなければならないのだろうか。「10万円借りて金利はたかだか2000円ほど」という若者の金利感覚に社会の歪みを感じないわけにはいかない。

そもそも消費停滞の真因は供給過剰にある。バブル崩壊後の130兆円に及ぶ経済対策がほとんど効果がなかったことはこのことを証明している。加えて少子高齢化により2007年をピークに人口は減少に向かう。「消費の増加=経済成長」と捉える拡大・成長の時代はすでに終わっているのだ。「心の豊かさ=福祉」という意味で福祉社会と言われる21世紀は経済価値至上主義からの脱却でもある。

北海道栗山町の一戸建木造住宅メーカー「竃リの城たいせつ」は、「もったいない」を経営理念に、雪深い北海道で最高の住宅を追求し続け、富士総合研究所のランキングで道内1の評価を得ている。同社は地域の資源を使って、地域の人たちとともに、地域の困っている問題を解決する「生命地域主義」を標榜する。「3階建・3世代・100年住宅」は大手住宅メーカーが使う安い輸入材でなく国内産、それも北海道産の木材をつかう。しかも他社に比べて3〜4倍の木材を使いながら坪単価は45万円と決して高くない。材木は100%使い切り、工場は石油一滴使わない。宮大工の知恵を生かした住宅は雪に強く暖かいうえ、厳冬の北海道でも結露がないことからシックハウスとは無縁で喜ばれる。さらに「両親と一緒に住みたがらない人には売らない」という顧客に迎合しない営業姿勢に「幸せな生活を提供する」という思想が貫かれている。

 日本の20分の1という低い人件費の中国と競合するのはやめよう。価格を追うのではなく、安全で心豊かな生活を提供することに目を向ければビジネスチャンスはいくらでもある。再生エネルギーの開発、安全な食生活、心安らぐ介護看護、いのちの教育など、喜びや感動を提供するビジネスに大きくシフトすることがこれからの企業の経営方針とされなければならない。ここに21世紀の日本の豊かさがあるのだはないだろうか。

 

急がれる「新しい利益概念」の創出TKC神奈川会会報14年1月掲載)

 還暦を迎えて何か書くようにと言われ、この世に生を受けて60年の歳月が経とうとしていることにびっくりしている。会計の道を志したのが大学1年の終わりだから、会計とのつき合いはざっと40年になる。恩師の薄衣佐吉先生から「会計には家庭会計、企業会計、国の会計、地球という4つの領域がある」と教えられ、今ではこの4つとも関わりを頂いていることは感謝に堪えない。宮城大学で「生活者会計」を教え、宮城県のバランスシート作成に携わり、そして2年前に「NPO法人環境会議所東北」を立ち上げ環境会計に携わるようになった。

 環境会計を学んで、現在の「利益」の概念が間違っていると思うようになった。地球環境問題は人類の最大の課題であるが、期間損益計算を至上命題としてきた現代企業会計は、地球環境問題の原因とされる「大量生産・大量消費・大量廃棄の経済」に貢献してきたのではないかという疑問がわいた。これまでは「利益の大きい会社がいい会社」とされてきたが、利益の大きな会社ほど地球環境を破壊してきたことは疑いのない事実である。利益の裏側に、会計上コストと認識されない膨大な「社会コスト」が存在することを会計は見過ごしてきた。社会コストを無視した「利益」は社会貢献の指標ではなかったのである。

 社会コストの第1は資源コストである。仮に、住宅会社が木造住宅を建設し引き渡したとしよう。企業会計では1,000万円の売上高は計上されるが、材木代は売上原価に計上されない。もちろん「材料費」は計上される。しかし、それは熱帯雨林から伐採してきた流通業者に対する手数料や運賃だけ。原木代そのものは支払の対象となっていない。毎年、本州の半分の面積に相当する森林が失われている原因はここにある。他方で、伐採しなくなったために、日本の森林は死にかけているという。社会コストの第2は環境負荷コスト。CO、NOX、SOX、フロンガスなど環境負荷による社会的コストは損益計算書に計上されない。使用済み製品の回収コストも同様である。第3はリストラされた社員の心の痛み。リストラによって企業の収益は回復されるが、一方的に解雇された社員の苦痛を企業が負担しなくていいのだろうか。

 これら社会コストを利益から控除した「社会コスト控除後利益」こそ、本当の社会貢献の指標である。現代会計の「利益」を「社会コスト控除後利益」に置き換えなければならないのだ。社会コストを内部化した会計理論が求められている。ステークホルダーの概念も全面的に見直さなければならない。

 こうした観点では、環境保全や修復に要したコストのその成果を対比する現在の環境会計はほとんど役に立たない。環境会計が企業や生活者の行動変革を促すようなインパクトを持っていないからである。「社会コスト控除後利益」を用いれば、企業に社会コストの抑制という行動原理が動く。

地球環境の保全や働く人の心の豊かさを守る企業会計に転換することこそ職業会計人の役割でなければならない。還暦を契機に、今年から「新しい利益概念」創出に向けていっそうの精進をしていこうと決意を新たにしている。

 

不況こそライフスタイル転換のチャンス〜経済価値を超えて〜河北新報「論壇」13年6月掲載)

 物質的な豊かさをもたらした20世紀は、反面で地球環境の破壊と家族や地域のコミュニティー崩壊をもたらした。失われる自然、若年化する少年犯罪、増加する離婚率などは「豊かさの中の貧困」をよく表している。

この大きな原因は「モノの豊かさが幸せをもたらす」という誤解にあった。幸せをもたらす手段であったはずの土地や生産設備は、いつしか幸せを実現するための所有対象とされるに至り、人々は生産手段の獲得や拡大に走った。生産手段の拡大はモノの生産を高め、生活者の物質的欲望をいっそう刺激し、企業の大量生産活動を促し、消費生活社会を出現させた。

悪いことに持つ者と持たざる者との格差は裕福な者にも貧しい者にも心の歪みをもたらした。すなわち虚栄、おごり、嫉妬、恨み、差別など精神的貧困である。わが国における少子化の原因として“子育てにお金がかかる”“教育にお金がかかる”という経済的理由が上位にきていることに、経済的な豊かさを実感できない心の貧しさを感じないわけにはいかない。

古今東西“幸福”とは何かについてさまざまな論議がなされてきた。しかし幸福が物質的豊かさの中だけにないことは、トルストイの“全ての不幸は有り余ることが原因である”の言葉で十分であろう。

今、大切なことは大量生産・大量消費・大量廃棄の経済システムから脱却し、自然に対する畏敬の念やモノへの感謝の心を取り戻し心豊かな生活に立ち返ることにある。このことは経済価値最優先の価値観を変えていくことでもある。この意味で、この長期構造不況を私たちがライフスタイルを転換する絶好の機会と考えるべきではないだろうか。

企業は化石燃料に過度に依存する経営から脱するとともに、少ない消費で生活者に心の豊かさを提供することを経営戦略の中心に据えなければならない。これまでのように消費を煽って買わせることに腐心するのでなく、買わないでも豊かな生活ができることを生活者に教育していくことが求められている。生活者のライフスタイルを変えていくのは企業の責任でもあるからだ。

他方、生活者は企業の広告宣伝に乗せられることなく、賢い生活者として自らを律していかなければならない。過度な車依存の生活をやめ、使い捨て生活から脱して、長持ちする良いものを大事に使い、リユース・リサイクルの生活へ転換することが求められる。併せて大切なことは企業への働きかけである。健全な企業活動を支援するとともに、反面で地球環境を無視したり不正な取引をした企業の製品を断固として拒絶していくことである。生活者から見放された企業は市場からの退場せざるを得ず、この意味で生態系と調和した健全な企業活動を促す鍵を握っているのは生活者自身であることを忘れてはならない。

市場主義は決して万能でないし、生活者行動も決して合理的でない。企業や生活者を健全に導いていくのは本来、政治の役割であるが、自治体はほとんどこの機能を果たすことなく経済の拡大策を模索するのみである。賢い生活者も個人の活動にも限界がある。ここに特定集団の利害にとらわれないNPO(非営利活動団体)の役立ちがある。

自然の偉大さ、いのちの連続、家族の絆、コミュニティー、思いやり、喜びなど、経済価値を超えた生活に向けて、いま企業、自治体、NPO、生活者の連携が求められている。そしてその実現が生活者一人ひとりの実践にかかっていることの認識を新たにしたい。

 

OAが豊かな社会のキーワード〜感謝の挨拶運動を〜(河北新報「論壇」13年5月16日掲載)

 OAが今、明るい社会のキーワード。元気な会社も和やかな家庭もみなOAが生きている。OAと言ってもオフィス・オートメーション(工場の自動化)のことではない。「O=お掃除」「A=挨拶」である。このOAが豊かな社会をつくるキーワードとして注目されている。

 お掃除と言えばイエローハットの創業者である鍵山秀三郎氏がつとに有名だ。自動車用品販売業を営む同社は徹底した清掃運動が会社発展の原動力となった。「凡事徹底」を信条とする氏が主宰する「日本を美しくする会」は全国に広がり公園や駅のトイレ清掃を行っている。そして清掃活動を徹底して行う会社の多くは業績が良くなる。

 挨拶ではアサヒビールを再建した樋口廣太郎氏。住友銀行の次期頭取と目されていた氏は、融資先のアサヒビールに出向を命じられ、同社に赴任するが、社員の身だしなみの悪さと挨拶もろくに行われていない文化に驚く。そこで氏が取り組んだのが挨拶・身だしなみ運動。改革は樋口氏自ら「おはよう」の実践で始まった。これが社内に浸透し企業文化が革新されたことが、スーパードライのヒットという奇跡を生むきっかけになったという。

 この両社を始めとし、いまOAに改めて取り組む会社が増えている。この背景には長期構造不況の下で何とか業績を回復したいという経営者の願いがある。しかし挨拶や掃除という当たり前の行動で、なぜ会社が元気になるのか。それはOAの実践で「相手があって自分がある」「モノによって生かされる」という感謝の心が育まれるからに違いない。OAが、バブル期を通じて蔓延してしまった企業利益中心の姿勢を、お客様あっての企業、社員とともに成長する企業へと転換させるからである。こう言うと「当社も挨拶、清掃を実施しているが業績はどうも・・・」という経営者が少なくない。それは「徹底」の違いである。理屈抜きで徹底して実践することによって自分が変わり、相手や周りが変わるのである。「徹底が文化をつくる」と言っていい。

 自治体でも挨拶運動が始まった。青森県の百石、下田、六戸3町は地方分権に対応した幹部職員の養成講座「おいらせ塾」を開催しているが、この講座も「挨拶の励行」から取り組む。愛知県の高浜市役所では毎日、始業前に全員で挨拶訓練を実施している。

 挨拶の効用は企業や自治体だけではく、家庭や地域社会を和やかにし自らの成長を促す。私事で恐縮だが宮城大学に奉職して丸4年が経過した。宮城大学は学生が明るい挨拶をすることで評価を頂いているが、小職はすべての講義のはじめに、学生を起立させ全員で「お願いします」と大きな声で挨拶をする。講義の終わりには再び起立して「ありがとうございました」の挨拶をする。蛇足ながら「この挨拶は私に対してでは決してない。240億円を投じてくれた県民や、学費を出してくれているご両親、この大学で世話をしてくれる100余名の教職員にお礼の心を込めた挨拶であることを忘れないように」と付け加えている。感謝の心が強いほど学習の効果も上がるものだからだ。

 講義の最終回にはアンケートをとるが、昨年は90%以上の学生が「良かった」と評価した。「意味がない、止めよ」というのが2%、残り7%は「どちらでもない」と答える。注目すべきは「意味がない」と答えた学生の中には成績の悪い学生が多いことである。

 幸い東北には挨拶の習慣やコミュニティーを大事にする心が残っている。道ですれ違う小学生に「おはよう」と声を掛けると「おはようございます」と返ってくる。「知らない人に話しかけられても返事をしちゃいけない」と教えられる東京とはだいぶ違う。東北らしい心豊かなまちづくりを挨拶運動から盛り上げたい。

積極的な情報公開で情報共有化を(河北新報「論壇」13年4月18日掲載)

 4月から施行された国の情報公開法に先だって地方自治体は情報公開の充実に向けて取り組んできた。東北では3分の2の市町村がすでに情報公開条例を制定するなど、情報公開度は比較的高いという。住民の知る権利と自治体の説明責任を満足させる情報公開条例は、住民の行政活動への参加を促すシステムとして期待されている。この制度は、もともと「官々接待」や「カラ出張」など自治体の不正を正し、自治体経営の透明性を高める手段として生まれてきたものである。しかし情報公開の本質は住民の請求に基づいて開示するというより、住民を地域経営に巻き込むための積極的な情報公開でなければならない。

 とりわけ積極的な情報公開が求められるのは予算や決算である。自治体の決算書は一般の人にはきわめてわかりにくい。まちの広報誌に掲載される「予算のあらまし」も事業毎の予算が記されていない。住民の関心は、町がどのような行政サービスを実施しているのか、そこに投入された投資額やコストがいくらで、費用対効果はどうかということである。それによって住民は、その事業の良し悪しや首長の行政活動を評価する。

 情報共有による透明度の高い行政システムの確立を目指す北海道ニセコ町は、平成7年から独自の予算書を作成し全戸に配布している。「もっと知りたい今年の仕事」というこの予算書は、40頁のほとんどに図や写真、地図などを盛り込んで分かりやすい。例えば「小規模治山事業」の欄については、手書きの地図入りで「昨年の大雨で被害が発生した小川さん宅先の治山事業を全額、道の補助を受けて実施します。事業金額○○万円」というように具体的に示されている。ニセコ町方式と言われるこの予算書は、福島県の飯舘村はじめ20余の市町村で作成されるようになったが、住民の視点に立ったこのような予算書っを全ての市町村が見習ってほしいものだ。

 他方、決算の面では宮城県が一昨年に古川土木事務所が行っている50余りの業務についてコストを分析して公表した。バッハホールで知られる宮城県中新田町では文化施設ごとのコスト分析に取り組んでいる。同じ宮城県の桃生町では民間企業の原価計算に相当する「行政コスト計算書」を作成した。いずれも自治体が行っている事業のコストを明らかにして費用対効果の観点から業務の有効性を明らかにしようという試みである。もとより自治体の事業は市場原理だけで判断すべきものではないが、経済原理の働く事業については事業毎のコストを明らかにすることが欠かせない。事業の予算やコストを明らかにすることにより、役場の職員も住民もコスト意識が高まる。されるからである。大事なことは関心を高め論議を深める情報を提供し、住民を地域経営への参加が促すことである。

 このことは現在、論議されている仙台市の地下鉄東西線にも言える。13の予定駅が公表され、14年免許申請、16年工事着工に向けて準備が進められているこの地下鉄は、仙台市の発表と市民団体の調査が大きく異なっている。市民団体の調査によると総工事費は仙台市が予測する2710億円を大幅に上回ることに加えて、乗客予想人員も市の132千人に対して、実際は半分強程度ではないかと予測する。総事業費や乗客人数予測が市の計画通りとしても仙台市の市債残高は特別会計を含めて1兆5千億円を超え、累計黒字の転換は27年目となる。仮に市民団体の調査が正しいとすれば、市の財政負担が極度に大きくなることから、彼らは総工事費が10分の1程度のライトレールを提案している。

 必要なことは、地下鉄に関する多面的な情報を市が積極的に公開して、市民がそれぞれの立場から分析、判断し意見を言い合える環境を作り上げていくことではないだろうか。

 

家庭で「いのち」の教育を(河北新報「論壇」13年3月掲載)

 日米欧の国際共同プロジェクトや、米国の民間企業によって進められてきたヒトゲノムの解明がほぼ終了したという。それは「いのちの時代」と言われる21世紀の幕開けを象徴している。遺伝子の解明が不治とされてきた病に朗報をもたらすことは喜ばしい限りである。しかし「いのちの時代」の本当の意味は解明されたゲノムの暗号をモノとして思いのままにあやつることではなく、「いのち」の神秘性、尊厳性に気づき、自然の摂理に沿った生活に立ち返ることではないだろうか。

この数年、少年による凶悪犯罪の増加が大きな社会問題となっている。最近の特徴は、いわゆる「普通の子」が、「キレル」という言葉に表れているように衝動的に犯罪に走ること、「誰でもいいから刺してみたかった」「殺しを経験してみたかった」という証言に見られるように罪の意識がないことである。とりわけ、人をモノ扱いしていることが恐ろしい。「おやじ狩り」に走る少年たちは路上の大人をゲーム感覚で襲っているようにしか思えない。

犯罪増加の最も大きい要因は家庭の崩壊であろう。共働きの増加や核家族化により、子供が両親や祖父母などとの接触が著しく減少したことはその一面である。保育園の先生によると、核家族で育った子供の多くが人口乳、朝食抜き、紙おむつ、保育園の給食に依存しており、情緒不安定やいじめっ子が多いのに対して、祖父母のいる三世代家庭の場合は情緒が安定しており問題児は至って少ないという。両親のわがままによる夫婦間の不和も子供の発達心理に大きな原因を与える。平成12年の離婚は25万組を超え、この10年間で1.5倍に増加した。婚姻数と比べると、婚姻件数3.2に対して離婚1である。夫婦の間における信頼感の欠落が子供の非行、いじめ、暴力、犯罪等の遠因になっていることは想像に難くない。また、最近の新聞が毎日のように報じている幼児虐待は親の役割の放棄そのものである。

それではどうしたら家庭崩壊が防げるか。その根本は自らの「いのち」の尊さに気づくことである。一人で生まれ、育ってきた人はいない。誰もが両親に生んでいただき、育てて頂いた。父も母もその両親に、祖父母もまたその両親に生み育てられた。自分に流れているこの「いのち」は父母、祖父母、曽祖父母を通じて先祖から、ひとときも切れることなく連綿と受け継がれている。そこに両親、祖父母たちの無限の愛があることに気づけば「生かされている自分」に目覚める。その気づきが他人を思いやる心や、人の「いのち」を尊ぶ心の前提である。

どこの家でもお正月やお彼岸、お盆には家族揃ってお墓参りをしてきた。朝夕は神仏への参拝を欠かさず、よそからの頂き物はまず仏壇に供えてから子供達に分けられた。これらはみな、私たちが目に見えない先祖や大いなる「いのち」に生かされていることへの感謝の表れに他ならない。こうして私たちは育てられ自然や目に見えない存在に畏敬の念を感じてきたのである。

「いのち」を遡れば両親・先祖を通して万物に還り宇宙の「いのち」につながる。人間は多くの動物や鳥や虫や植物の「いのち」のつながりの中で生かされているのであり、「他を生かすことなくして私たちが生きることはできない」ことに気づく。そして私たち一人ひとりに流れる「いのち」は、鳥や虫や草花に流れる「いのち」と同じであることに気づけば虫一匹たりと、理由なく殺すことは出来なくなる。

大事なことは、こうした「いのち」の教育を家庭の中で自然に行うことではないだろうか。私たちの両親や祖父母が普通に行ってきたように。

 

東北にこれ以上の企業誘致はいらない(河北新報「論壇」13年2月23日掲載)

 まちの人口減少が進む過疎化は東北の市町村が抱える共通の悩みである。しかし過疎対策としての工業誘致や住宅政策も度を超せば自然を破壊し地域のコミュニティーを崩壊させる。無理に人口を増やそうとするより、東北らしさを生かした住み良いまちづくりを進めるべきではないだろうか。

 著しい人口の減少と財政力の弱さから過疎地域に指定されている市町村は1,200余、国土の40%を占める。まちに就業や遊びの場がないことから若者人口が流出し、高齢化が進む。人通りが途絶えシャッターを閉めた店が目立つ一方商店街は過疎にいっそう拍車を掛けている。後継者不足のために農地の荒廃という危機に直面している地域もある。

 若者を流出させないためには雇用の場を確保しなければならず、多くの自治体では工業誘致やリゾート開発を積極的に進めてきた。とりわけ工業誘致は雇用の場の創出だけでなく、誘致工場の経済波及効果で地元産業が振興する上に租税収入が増加すると考えられた。しかし誘致工業は系列企業や関連企業の利益を優先するために、地元企業と連携が図れるケースは少ない。加えて、工場団地や道路の整備に農地や山林が失われ、水と空気の汚れを招いた。さらに外部からの流入者はその地域の風土や習慣になじみ難く、地域の文化やコミュニティーが失われてきた。

東北のまちづくりはミニ東京やミニ仙台を目指すのでなく、地域の特徴を生かした東北らしいものでなければならない。東北らしさとは自然環境と地域のコミュニティーと言えないだろうか。大都市が失なってしまったこの自然環境とコミュニティーを生かしていくところに東北の、また日本の将来があるに違いない。

まず高齢化を「困った問題」と捉えることなく、徹底して高齢者に住み良いまちづくりを進めることである。バリアフリーの道路や交通システムの整備、ボランティアの組織化による介護体制の確立、ITを駆使した一人暮らし老人との双方向相談システムの構築、高齢者向けのビジネスの創出など、高齢者にやさしいだけではく、高齢者が活きいきと生活できる環境を整えることである。

 教育面では志の高い指導者を育て、IQ思考の知識教育ではなく自然環境の中での体験教育やこころの教育を重視し、いじめのない学校づくりを進める。こうした人づくりが高齢化社会や循環型社会を支えるからだ。

 地域の自然環境を守るためにデポジット制度やお買い物袋持参運動を展開し、その地域に合わせたごみ分別やリサイクルシステムを確立する。一般家庭は生ごみを分別排出し、事業系の有機廃棄物と合わせて広域の堆肥化施設で堆肥とし、農協を通して農家の有機農業に活用される仕組みを作る。

 まちの産業振興は農業を軸とした農産物の生産、加工、流通など、いわゆるアグリビジネスを最優先に育成する。わが国の食糧自給率は先進諸国で最も低く30%と言われるが、食の安全と安心を提供することこそ東北の使命でもあるからだ。有機農産物をまちの特産品として全国に発信していくだけでなく、農家、加工・流通業者、市民、自治体が一体となったアグリビジネス育成の取り組みそのものが観光資源となる可能性を秘めている。

 こうしたまちづくりが実現すれば、いやでも都会から人口が移住してこよう。都会へ出ていった若者も親の面倒や子供の真の教育を求めてUターンしてくるはずである。先進主要国の中でも最短時間で突入する高齢化社会に、こころ豊かな循環型まちづくりのモデルとなることこそ最大の過疎対策ではないだろうか。

 

自治体は無借金経営を目指せ(河北新報「論壇」13年1月19日掲載)

 わが国の財政が危機的状況にある。先進7カ国中最悪の赤字国で、13年度の政府予算では国債発行高は12年連続で過去最高の98兆円に上る。財政危機は地方自治体も同様で、宮城県の地方債残高はこの3月末に1兆3050億円を超えると予測される。8年前の平成4年度末6,036億円に比べて実に2倍強である。

 財政危機の原因はバブル崩壊後の不況による税収の不足にあると言われる。しかし、それは地方税収に依存する割合の高い東京、大阪などの大都市の話であって、少なくとも東北の自治体は税収不足によるものでは決してない。小職は宮城県のバランスシート作成に携わってきたが、宮城県の地方税収入は平成4〜6年度の間は減少したものの7年からは回復、11年度に若干減少したものの12年度は過去最高になると予想される。加えて国からの地方交付税は7年度から一貫して増加している。にもかかわらず地方債が増加し続けているのは経常的経費の増加と公共投資の増加にあり、思い切った歳出削減、とりわけ公共事業の見直しが急がれる。

 言うまでもなく地方債は原則として建設公債に限って発行が許され、公共投資の削減が地方債削減のカギを握る。100兆円を超す財政支出が景気浮上に効果を見せず、バラマキともムダな公共事業とも言われながら削減が進まない一番の問題は景気対策があるにしても、地方債の残高を減少させるという目標がないことである。

地方債による建設投資が容認されるのは世代間の平等にあると言われる。すなわち公共投資は私たち現世代だけでなく子孫など後世代がその恩恵を受けるので、後世代が負担するのは当然という論理である。しかし親が進んで子供に借金を残そうとするだろうか。多額の財は残せないけど借金だけは自分の代で清算しておきたいと考えるのが親ではないだろうか。加えて、公共投資は後世代に財産を残すと言っても、我々は先祖から受け継いだ自然資源を破壊してきた。化石資源も使い果たそうとしている。破壊した自然資源がいくらの公共投資に相当するかは環境会計の研究を待たなければならないが、自然資源の破壊を無視したまま新たな建設投資の負債を後世代に残すことは許されないはずだ。

 民間企業では無借金経営が良いとされる。それは自治体でも同様である。財政健全化とは借金を減らしていくことであり、財政健全化計画は地方債残高を減少させる時期と金額を明確にしなければ意味がない。そしてその最終目標は地方債残高ゼロ、すなわち無借金経営に置くべきである。残念ながら宮城県の財政健全化計画は地方債の発行額を減額させる程度であり、残高を減少させていく意思は読みとれない。しかし宮城県内でも地方債の残高削減に取り組み出した市町村が出てきていることに希望が見える。

現状の経済環境や多額な地方債残高に鑑みれば、いますぐに地方債発行をゼロとするわけにはいかない。また地方債による建設投資のすべてが悪いというわけではない。問題は地方債を野放図に発行している現状に歯止めを掛け、地方債残高を減少させる計画がないことにある。重要なことは地方債残高ゼロに向けた計画づくりと、地方債による建設投資については投資の回収計画やプロジェクト毎の地方債残高を分かりやすく情報公開し市民の理解と納得を得ることである。

 他方で、健全財政健全化のために政治家を選ぶ市民の意識変革も求められる。「何を作ったか」という道路や箱モノではなく、地域のコミュニティーや心の豊かさの実現を評価し一票を委ねたい。

 

これからのまちづくり
(12-11-1:宮城県中新田町「未来なかにいだまちづくり委員会」での発言要旨)

 21世紀まであとわずか。経済成長をもたらした20世紀が残したツケは次の3つに要約できます。

  1. 地球環境の破壊が深刻化
  2. 国と地方自治体も財政破綻
  3. 家族・血縁とコミュニティーの崩壊

 この3つの問題が、本日まとめられた「未来なかにいだまち町民会議提案書」の内容で解決できるかどうか、これが一番問題にされなければなりません。私は、この提言書の内容が実践できれば必ず3つの問題は解決できると信じています。但し、その前提があります。それは次の2つの価値観を浸透させることです。

 第1は、私たち誰もが宇宙の分身として生かされているという認識に立つこと。これは中新田町の精神的シンボルである「宇宙村構想」の精神をっしっかりと受け継ぐことでもありますが、自分だけが良ければいいという自分勝手な生き方ではなく、お互いに生き生かされていることへの感謝と報恩の心を忘れないことです。第2は、モノの豊かさ偏重を改め、心の豊かさ重視に転換することです。幸せの定義は人によってさまざまかも知れませんが、「すべての不幸は有り余ることが原因である」というトルストイの言葉にあるように、幸せはモノの豊かさの中だけにはないことは誰も異論のないところでしょう。

 さて、こうした前提に立って、これからの中新田町の産業振興や環境問題を考えてみます。

 安全・安心のまちづくりにとって最も大事なことは「食の安全」ではないでしょうか。農薬・化学肥料にどっぷり使った農産物でなく、自然の中で育まれた食材を生みだしていくこと。このためには畜産し尿や生ごみを焼却処分することなく分別収集し、これを堆肥に農産物を育てるという「自然生態系農業」への転換が求められます。また、こうした取り組みはゴミの減量や循環型社会の構築にもつながります。もちろん学校教育も知識教育だけでなく自然との共生体験を積極的に教育の中に取り入れます。

 一方、産業振興面では農業を基幹産業と位置づけ、中新田町で栽培された自然農産物を素材として、これを加工、流通させるという「農業を中核とした食の事業」、すなわち「アグリビジネス」を発展させていくことです。それも大資本による産業ではなく、地元の人が地元の資源を使い、地元の人たちの協力で、地元の人に向けたビジネスを展開するという「コミュニティ・ビジネス」を育成していくことが大切です。こうしたビジネスに携わることによって住民一人ひとりの創造力が開発され自己実現の欲求がます。それがまちの活性化を促すのです。

 とかく地方の都市は過疎化が心配されることから人口増加策に目が行きがちですが、中新田町のこうした取り組みを世界に発信していけば黙っていても人口は増加するはずです。まず何より中新田町のこうした取り組みに見学者が押し寄せます。それは中新田町の日常の生活が観光資源になることを意味しています。もちろん自然生態系農業やアグリビジネスに従事したい人も中新田町に移り住んでくるでしょう。学級崩壊が進む大都会で子供の教育に悩み続ける若い夫婦は、いじめや登校拒否がない中新田町への移住を希望するはずです。上京して大学生活を4年間を過ごした学生も卒業後しばらくすれば本当の生活は故郷にあることに気がついて戻ってきます。彼らは家を継ぐだけでなく、農業や家業の立派な後継者になるに違いありません。

 最後に、今日、発表されたこの提案書をどのように実現していくか、これがこれからの課題です。私は現在23ある行政区を自主的・主体的な行政区としていくことが、この実現に深く係わると思っております。

 地方分権の時代と言われますが、この本当の意味は住民一人ひとりが主役になることです。ところが現在のところ、住民は町の政策形成の主役になっていません。町や議会の決定を一方的に受け取るだけです。行政区も町が決めたことを通知し徹底するためのものです。いま必要なことは、受け身の行政区を能動的な行政区に変革していくことなのです。今日の提言書も、具体的な実行に当たっては、何から取り組むか、どのように推進していくか、などなど、これから審議しなければならないことばかりです。これをそれぞれの行政区でカンカンガクガク論議し、中新田町に最もふさわしい内容や方法を決定していくことが大切なのです。

 来春には中新田町の総合計画が出来上がることでしょう。どうか行政区ごとにこの内容を論議し理解しあい、積極的に提案を町に寄せていただき、みんなが納得のいく、希望の持てる未来中新田町を築いてほしいと願っております。(平成121029日)

                               

 4ピコでいいのかダイオキシン(11-7-20)
 
 先般、これまで厚生省と環境庁が違う規制をしえちたダイオキシンの規制値が定められた。体重1キログラムあたり4ピコグラムだという。
 これはWHOが定めている最低ラインであるが、我が国の現在の水準からすれば、4ピコグラムはやむを得ないものと言われる。4ピコグラムまでなら「一生、とり続けても健康に悪影響がない」という基準だそうだ。ピコとは1兆分の1というから小さいことこの上ないのだが、これで問題はないのだろうか?
 
 小職は生物や化学のことは分からないので、4ピコが基準として妥当なのか否かは分からない。ただ、言えることは「人間の健康に害がなければいいのか?」という点は絶対に間違っていると言わざるをえない。
 「人間さえよければ」という前提にたって、生態系の維持を考えるのを「シャローエコロジー」という皮相的エコロジーと訳される。これに対して、人間も他の動植物のいのちも同じ価値。人間に生きる権利があるのなら動植物にも生きる権利がある、と考えるのを「ディープエコロロジー「という。深層エコロジーと訳される。4ピコグラムはまさに「シャローエコロジー」である。

 お釈迦様は「国土草木悉皆仏性」と言われた。草にも木にもミミズにも仏性がある。人間が生きてこられたのは、これら動植物のおかげ。人間は多くのいのちのつながりの中で生かされていることを考えれば「人間の健康に害がない」だけで規制値を決めていいものだろうか。口先ばかりのエコロジーでは地球問題は解決しない。いまこそ、価値観の転換が求められている。


               会計のパラダイムシフト(10−10−2)

 21世紀に向けて、全ての面でパラダイムシフトが求められている。公認会計士として、会計の領域でのパラダイムシフトは何なのだろうか。そこで会計の領域と言われる家庭、企業、国家、そして地球という4つの領域において、会計はどのようにパラダイムシフトしてゆくべきか考えてみた。
 <まず企業会計>
 ここでは取得原価主義・発生主義に取って代わって、時価主義とキャッシュフローが台頭してこよう。この意味は拡大・成長思考の経営から脱して発展思考(次項「拡大・成長の志向からの脱却を」を参照)に転換すべきことに通じる。すなわち、20世紀型の「利益思考経営」は、売上利益率を重視する結果、設備投資先行、売上債権の増大をもたらした。また、含み益を狙って盛んに投資・投機活動が行われた。この結果がバブル崩壊であり、自然の浄化能力を超えた経済活動は地球環境破壊をもたらしたことは周知の事実である。
 これに対して「キャッシュフロー重視の経営」は資本利益率を重視するから総資本抑制に働く。また時価ベースで企業の実態を把握できる。このことは、時価主義・キャッシュフロー重視の会計が21世紀に向けた発展思考の経営を促すことにつながる。
 <次に公会計>
 官庁会計とも言われる公会計は「単式簿記、現金収支中心、単年度主義、予算中心主義、非連結決算、管理会計の軽視」という欠陥を抱えている。そもそも我が国の公会計は明治22年にドイツに範をとって制定されたものであるが、’財産管理’志向であって’経済性・効率性・有効性’の判断情報となり得ない。ここに行財政改革を阻む大きな要因がある。21世紀に向けて公会計は企業会計システムの長所である複式簿記を導入していかなければならない。
 <次に生活者会計>
 家庭領域の領域では家計簿が会計システムに相当しよう。問題は家計簿も資金収支だけであることだ。バブル期に企業が不良債権を抱えたと同様に家庭も自己破産が急増している。生活者会計の領域で最も必要なことは源泉徴収制度を止めてサラリーマンも確定申告を義務づけることである。
 現在、自分が払っている税額を知っているサラリーマンは何人いるだろうか? 市民一人ひとりが国や地方自治体に納めている税額に関心をもつことが参政意識の第一歩である。
 <最後に環境会計>
 地球規模での会計は企業会計における環境コストの認識である。環境コストや資源コストを内部化することである。企業が排出する二酸化炭素やダイオキシンなどの環境コストに加えて、森林、動物、鉱石などの天然資源のコストは現在の会計では全く把握されてない。こうしたコストを外部化したまま、コストとして認識しない現在の会計システムでは地球を救えない。21世紀に向けて、これらを考慮した環境会計の確立が待たれるゆえんである。
 

 

拡大・成長志向からの脱却を(10−8−8)

 小渕内閣は景気回復のために大幅な減税政策をとるという。
しかし、法人税を諸外国並にするのは分かるとして、所得税を引き下げ、生活者の財布の紐をゆるませることは、本当に価値あることなのだろうか?
 そもそも「売れない」ということは「ほしいものがない」ことなのだ。なのに減税して「必要のないモノを買わせる」ことを狙うのは「ムダを奨励すること」に他ならない。それが私たちの幸せにつながるのだろうか? ゴミを増やすだけではないのだろうか?
 こういう時こそ、欲望肥大化の生活を反省し「足を知る」生活に転換するチャンスのはずである。
 「これ以上需要が低下すれば企業倒産が増加する」という反論はあろう。しかし、企業経営にとって大切なことは新たな需要を創造することであり、新商品・新サービスの開発により企業を発展させる手だてはいくらでもあるはずだ。手をこまねいて、政府の経済政策に頼っている企業は存在価値がないと言ってもいいのではないだろうか。
 そもそも、地球環境の有限性を考えれば「企業の永続的な成長」が困難となることは明白である。このことはこれまで企業が拠り所としてきた成長指向の終焉を意味する。「成長の論理」は「発展の論理」に置換えなければならないのだ。「成長」は量的拡大であるのに対して、「発展」は質的向上ないし知的能力の発達、文化的価値的向上という。要するに「発展」は人間の尊重、人間生活の質的向上を目指すところに重点が置かれるのだ。量的な拡大を意味する成長から、質的な充実や進化を意味する発展への転換こそ、経済と生態との調和の前提なのである。この地球も長いあいだ成長することなく発展しているように。
 

 

  パラダイム・シフト(10−8−8)

 21世紀に向けて「パラダイム・シフト」が叫ばれている。パラダイムとは一体何なのか? 本を読んでも人の話を聞いても各人各様である。ここでは、パラダイムをひとまず「考え方の枠組み」「人間の価値観」としておこう。
 それでは次に、パラダイムをどのように転換あるいはシフトしていったらいいのだろうか? 
 まず、大昔のパラダイムを考えよう。太古の昔から人類は自然を全てのよりどころとして尊んできた。自然の神秘で大いなる力の中に神を見、神は自然循環生産力の象徴とされてきた。そこにおける人間の生活は自然の循環に拠ったものであり、人々の生活原理は「自然の中で自然とともに生きる」という「自然パラダイム」であった。
 この自然宇宙観に正面から異をとなえたのがルネッサンス文明による人本主義である。
 人本主義は「人間」を神に取って代えた。人間中心のこの思想が、科学の発達と相俟って「全ての存在物は機械のように部分のつながりからなっている」という「機械論パラダイム」を生み、企業が科学の力を援用して自然や環境を人間にとって都合の良いように作り変えるという企業中心社会の出現をもたらしたのである。この企業中心社会における企業活動の指導原理は、より少ないコストで多くの収益獲得を目指すという「経済的合理性」に置かれた。
 しかし、経済的合理性への偏重が地球環境との調和を欠き、これが環境問題や人間疎外の原因となったことは周知の事実である。すなわち、私たちが生きてゆく上で、現在の「人間中心」の「機械論パラダイム」をどうしても転換しなければならなくなっているのである。
 この「経済と生態の調和」「物質と精神の調和」を可能とする新たなパラダイムが「生命論パラダイム」なのである。
 生命論パラダイムは、人間を生物種の最上位に置くのではなく「人間はあらゆる命のつながりの中で生かされている」という認識に立つ。すなわち、動物や植物、微生物などのおかげで人間が生かされているのであり、これらの生物種と共生していかなければならないと考える。
 今まで人間は生きるために他の生物を「殺して」来たが、そこのとが今、人類を危機に陥れていることを知ったのである。「他を生かすことが自らを生かすことにつながる」のである。「他を生かし他に生かされながら、自らもよりよく生きる」というパラダイムこそ「生命論パラダイム」なのである。
 生命システム観の指導原理は、人間は他の全ての生きとし生ける全ての生命と共生しており相補的に生かしあっているという共生・創発の価値観につながる。

 

京セラ会計学(10−7−25)

  京セラの稲盛会長の会計に対する考え方を、斉藤明夫さんという元経理部長(既に退職)が「京セラ会計思想の原点」という本にまとめたもの。いまでは京セラのバイブルになっているという。徹底したキャッシュフロー・保守主義経営ですが、これがすばらしいのです。キャッシュフロー経営は拡大・成長志向から、発展指向の経営を促すからです。

 「京セラ会計学」というテーマで稲盛会長が講演した記録からちょっと抜粋してみます。まず創業当初、利益が出たので配当金を支払おうと経理部長に言ったところ、経理部長は「では銀行から配当資金を借りてきます」といった。稲盛さんは「利益の中から払えばいいのだから借り入れする必要はないのでは」と問い返すと、「いや利益は出たのですが、在庫や売掛金が増加して資金はないのです」と答えた。稲盛さんはここで「利益」と「資金」が別物であることを理解され、以来、資金運用表を作らせてこれで経営したという。

 稲盛さんの講演の中から主だったものを拾ってみると、@資金として残っているものが利益、A設備投資はキャッシュフローの範囲内で、B在庫評価は売価還元法で、Cセラミック石ころ論、D未経過分は資産に計上しない、E金型は有税で費用に落とす、F資産運用は元本保証のものに限る、G不動産投資は工場増設のみ、H予算制度はムダ使いのモト、I資材1升買い論(資材は一斗樽で買ってはならない)など。

 詳しくは「盛和塾」平成9年7月通巻22号 TEL:075−212−7801
 最近、致知出版社からビデオが発売されているとか。TEL:03−3409−5632

なお、京セラの経営では「アメーバ経営」が有名であるが、「京セラ・アメーバ方式」(国友隆一著、ぱる出版)が参考になる。

 

今、OAが隠れた経営のキーワード

                               (仙台北法人会機関誌10年9月号より)

1,お掃除・挨拶が会社を強くする

今、OAが隠れた経営のキーワードだという。
オフィス・オートメーションではない。「お掃除」のOと「挨拶」のAでOAだ。この構造不況下でも、お掃除と挨拶を実践する会社が着実に発展している。

お掃除ではイエローハットがあまりにも有名だ。創業以来一度も見積書を出したことがない同社の鍵山社長は、お掃除で培った信用が会社の発展を支えているという。鍵山社長のトイレ掃除に代表される‘凡事徹底’は同社の社員をして、最寄りの駅から会社まで掃除をしながら出勤するまでに感化してしまった。今では鍵山社長の指導により日本各地行われる掃除の会には、同社長を慕う経営者がこぞって参集する。

他方、瀕死状態に陥っていたアサヒビールは挨拶の実践による企業文化の革新でスーパードライを生み出した。住友銀行から建て直しのために派遣された樋口会長は、身だしなみが悪く、挨拶もろくろく出来ないアサヒビールの社員に驚き、率先して大きな声で社員に挨拶を始めた。挨拶の実践が浸透するにつれて社内に活気がみなぎりスーパードライが生まれたのだという。

2,「感謝の心」が顧客満足の原点

お掃除や挨拶をするのは当たり前。なぜそれで会社が良くなるのだろうか?
それは、お掃除も挨拶も「相手があって自分がある」という感謝の心を醸成し、それが顧客満足や社内のコミュニケーションを促すからである。

言うまでもなく私たちは一人で生きていけない。多くの人のお陰で生きている。企業もお客様や仕入先、協力企業など多くの関係機関のお陰で存在している。しかし日常生活ではそれがほとんど意識されていない。「お客様第一主義」と口では言いながら企業中心、利益優先になっていたのが現実なのだ。

汚れたトイレを‘心を込めて’掃除することによって初めて‘モノに生かされている’ことを実感する。「ピカピカに磨いたこの便器でビールを飲みたい」という言葉は、実践した者でなければ吐けない言葉である。こうした感謝の気持ちが「共生の文化」を培ってゆくのだ。

3「徹底」が文化を創る

このように書いてくると「お掃除も挨拶も、当社では昔からやっている」と言われるかもしれない。
確かに、どこの会社もそれなりにやっている。しかし発展する会社は「徹底して」やっている。この違いが大きい。「徹底が強い文化を創る」のである。

運賃値下げを運輸省に申請して話題を呼んだ京都のMKタクシーは「挨拶をしなかった時には運賃を頂きません」と車内に掲げて徹底を図った。

当たり前のことを徹底して実践する会社は3S、5S始めコストダウン、市場開拓、商品開発など、みんなで決めたことを徹底して実行に移す。

では、徹底するにはどうするか? それはトップ自ら、今日から実践することである。
筆者は20余年、経営コンサルタントとして赤字会社や行き詰まった会社の改善指導に当たってきたが、社長が率先してOAに取り組む会社に業績の悪い会社はない。

さあ、今日から徹底してOAを実行しようではありませんか。

 

研究ネットワーク

これからリンクを貼ります。しばらくお待ちください

1.神奈川大学海老沢研究室

2.アクト・フォ・テレワーク(AFT)

3.日本創造経営協会

4.中小企業大学校

5,TKC全国会、TKC出版 http://www.tkcnf.or.jp/


戻る ホーム 上へ 進む

天明研究室ホームページ