ちょっといい話

<このページは>

  私が読んだり聞いたりした情報の中から、感動した話を掲載します。原則として引用原点を記してますので、詳細はそちらを参照してください。

 

                                 一人1秒のプレゼント(2 3−11−4)

                             アイエスエフネットの渡邉社長から伺ったお話しです。

『1人1秒のプレゼント』

マサと呼ばれている男の子がいた。マサは右足が不自由でいつも足を引いていた。だけど体育の授業にもサッカーの練習にも参加するがんばり屋である。

運動会が近づき、クラス対抗リレーの練習が始まった。

そんなある日、マサがしょんぼりして職員室にきて担任の太田先生に「僕、クラス対応リレーには出ません」と言う。

黙っているマサを説得して、理由を聞き出すと、マサはクラスの一部の子達が「マサがいる限り僕らのクラスは一等になれっこない」と話しているのを偶然に聞いてしまった。

そこで先生に「僕はやめる。僕が走ると負けるから」と言いに来たのだった。

翌朝、太田先生はクラスのみんなにマサがリレーに出ないと言っていることと、その理由を説明し、最後に「リレーはみんなが力を合わせることが素晴らしいんだよ。大切な友達を、傷つけて、優勝したって何がうれしいの」と、問いかけた。

すると一人の男の子が立ち上がって、こう叫んだのだ。「マサ走れよ。クラスのみんなが一人一秒ずつ速く走れば、38人で38秒速く走れる。そうしたら勝てるぞ」

その日から子どもたちは、それは、必死になって、スタートからバトンタッチの練習をする。

そして、運動会の当日、マサは歯を食いしばって、自分の距離を走り抜いた。クラスのみんなも、マサに一秒をプレゼントするために必死で走る。よそのクラスは転ぶ子がいたり、バトンを落とすミスも出て、なんとマサのクラスに優勝が転がりこんだ。

太田先生は涙の向こうの子ども達の笑顔が、まぶしくて仕方がなかった。 

(「ありがとうを伝えたい」〜もう一度人を信じたくなる60の話 第二章より)

 

 

お別れの言葉(2 3−11−3)

『お別れの言葉

 園長先生、歩未の声が聞こえますか。2歳10ヶ月の時、丹養塾幼稚園に入園してから、漢字、算盤(そろばん)、諺、俳句、花園文庫、伝記、少年日本史朗誦選集など、園長先生には沢山の事を教えて頂きました。

 毎日一生懸命勉強して南宋の文天(ぶんてん)祥(しょう)の正氣(せいきの)歌(うた)を暗誦できるようになった時も、算盤の大会でトロフィーを貰って来た時も、園長先生はとても喜んで褒めて下さいました。

 それから園長先生は色々なところに連れて行って下さいました。北海道巡歴研修でクラーク博士の像の前で「青年と大志」を朗読した事、青森文字色駅のデパートの軒先で野宿をした事、北陸巡歴研修で、永平寺で座禅をした事、橋本左内の銅像の前で啓発録(けいはつろく)を読んだ事、沢山の楽しい思い出があります。

 他にも、親子教室甲山の遠足、運動会、お餅つき、立志集、卒園式、小音楽会、桃太郎の劇など園長先生に教えて頂いた素晴らしい思い出が沢山出来ました。

 これから園長先生は天国へ行って、私達の事を見守っていてください。

 私達は、園長先生に教えて頂いた事をいつまでも忘れず深くさぐって強く引き出す人になります。天から受けたものを天にむくいる人になります。そして、この世に役立つ人になります。園長先生、ありがとうございました。

 平成15年11月23日園児代表 吉田歩未』

(「小さな人生論2」藤尾秀昭著より)

 

みっちゃん(2 1−9−15)

  みっちゃんは中学に入って間もなく白血病を発症し、入退院を繰り返しながら、厳しい放射線治療に耐えていました。間もなくみっちゃんの頭髪は薬の副作用ですべて抜け落ちてしまうのです。

 それでもみっちゃんは少し体調が良くなると「学校へ行きたい」といいました。不憫に思った医師は家族にカツラの購入を勧め、みっちゃんはそれを着用して通学するようになりました。

 ところが、こういうことにすぐに敏感に気づく子供たちがいます。皆の面前で後ろからカツラを引っ張ったり、取り囲んで「カツラ、カツラ」「つるつる頭」とはやし立てたり、哀しいいじめが始まりました。担任の先生が注意すればするほど、いじめはエスカレートしていきました。見かねた両親は「辛かったら、行かなくってもいいんだよ」と言うのですが、みっちゃんは挫けることなく毎日学校に足を運びました。(中略)つらいいじめの中でも頑張って学校に通ったのは「友達を失いたくない」という一心からでした。

 二学期になると、クラスに一人の男の子が転校してきました。その男の子は義足で、歩こうとすると身体が不自然に曲がってしまうのです。この子もまた、いじめっ子たちの絶好のターゲットでした。

 ある昼休み、いじめっ子のボスが、その歩き方を真似ながら、ニタニタと笑って男の子に近づいて行きました。またいじめられる。誰もがそう思ったはずです。ところが、男の子はいじめっ子の右腕をグッと掴み、自分の左腕と組んで並んで立ったのです。そして「お弁当は食べないで、一時間、一緒に校庭を歩こう」。毅然とした態度でそのように言うと、いじめっ子を校庭に連れ出し、腕を組んで歩き始めました。

 クラスの仲間は何事が起きたのかしばらくは呆然としていましたが、やがて一人、二人と外に出て、ゾロゾロと後について歩くようになったのです。男の子は不自由な足を一歩踏み出すごとに「ありがとうございます」と感謝の言葉を口に出していました。その声が、仲間から仲間へと伝わり、まるで大合唱のようになりました。みっちゃんは黙って教室の窓からこの感動的な様子をみていました。

 次の日、みっちゃんはいつも学校まで来るまで送ってくれる両親と校門の前で別れた直後、なぜかすぐに車に駆け寄っていきました。そして付けていたカツラを社内に投げ入れると、そのまま学校に向かったのです。

 教室にはいると、皆の視線が一斉にみっちゃんに集まりました。しかし、ありのままの自分をさらす堂々とした姿勢に圧倒されたのでしょうか、いじめっ子たちはあとづさりするばかりで、囃し立てる者は誰もいませんでした。

「ありがとう。あなたの勇気のおかげで、自分を隠したり、カムフラージして生きることの惨めさがわかったよ」。みっちゃんは晴れやかな笑顔で何度も義足の男の子にお礼を言いました。

 しばらくすると、クラスに変化が見られ始めました。みっちゃんと足の不自由な男の子を中心として、静かで穏やかな人間関係が築かれていったのです。

 みっちゃんに死が訪れたのはその年のクリスマス前でした。行きを引き取る直前、みっちゃんは静かに話しました。「私は二学期になってから、とても幸せだった。あんなに沢山の友達に恵まれ、あんなに楽しい時間を過ごせたことは本当の宝でした」と。(文学博士 鈴木秀子さんの「人生を照らす言葉」から)

 

ホ・オポノポノ(20−12−3)

いま世界中に広がっている素晴らしい物語。「ホ・オ ポノポノ」の象徴的物語’’です。

 ハワイに州立病院があり、そこに大勢の心神喪失の犯罪者が収容されていました。殺人、レイプ、強盗等々といった犯罪は、精神的な病と深くつながっています。そういった犯罪者は、一般の刑務所ではとても管理しきれません。そこでハワイ州立病院が、手に負えない彼らをまとめて引き受けていたのです。

 やっかいなこうした犯罪者をまとめて収容したこの病棟では、囚人同士の喧嘩やトラブルが相次ぎ、いつも危険極まりない状態にありました。彼らを病棟に自由に野放しにしておいては、それこそ殺人すら起こりかねません。そこで囚人が動けないようにと、手かせ&足かせをし、また大量の薬物を投与することでなんとか管理していたようです。

精神病院の閉鎖病棟がそうであるように、囚人たちをついには廃人とせしめ、そのまま静かに死んでくれることを願っていたのかもしれません。そんな病棟に勤務することは、誰にとっても嫌なことだったからでしょう、職員たちは頻繁に病欠し、心理カウンセラーたちも数ヶ月で職を辞しました。

その病棟に入るときは、頭の狂った囚人たちから攻撃されることを恐れ、多くの人々は、壁を背にして恐る恐るにじり寄るほどだったと言います。それくらいこの病棟は恐れられており、訪問者もほとんどありませんでした。

誰もが近寄りたくないと思っているその病院の心神喪失犯罪者の病棟に、心理カウンセラーであるヒューレン博士が赴任しました。しかしヒューレン博士は、彼ら囚人の誰一人とも全く会わず、カウンセリングも一切することがありませんでした。ヒューレン博士は、ただオフィスに座って囚人たちのファイルを見ていただけです。

しかし、時が経つにつれ、その病棟に徐々に変化が出始めてきました。まず、囚人に投与されていた薬物が徐々に減り始め、囚人たちが勝手に動けないようにとはめられていた手かせ足かせも外されるようになり、さらに囚人たちには、病棟内を自由に散歩することが許されるようになりました。これはそれまでにない、まさに劇的で画期的な変化でした。それどころか、それまでは「廃人化死」の一方的な囚人エスカレーターが、なんと、心身の健康を回復して退院する囚人までもが現れ出したのです。もちろん職員や心理学者たちも、日を追ってどんどん明るくなっていきました。

そしてその数年後、その囚人病棟からはすべての囚人が退院して一人もいなくなり、現在では、すでに閉鎖されてしまっているということです。そこではいったい、何が起こったのでしょうか。ヒューレン博士は、いったい何をしたというのでしょう。何が極悪な囚人たちを正常化し、かつ健康を回復させてくれたのでしょうか。ここから「ホ・オ ポノポノ」の話が始まっていくのですが、結論から簡潔に言ってしまえば、ヒューレン博士は、囚人の個人情報が記録されているファイルを開いて、次の4つの言葉を、たえず一人で語っていたに過ぎないのです。

すなわち、

 I love you.(愛してます)

 I’m sorry.(すみません)

 Please forgive me.(どうか赦してください)

 Thank you.(ありがとうございます)

ヒューレン博士は、囚人とは誰一人として会いませんでした。誰とも面談せず、カウンセリングせず、ただ一人で言葉を繰り返すことにより、すべての囚人たちの心の闇を消し去って、まっとうな人間に戻したのでした。

以上は決して作り話などではなく、実際にハワイの州立病院で起こった事実です。そしてこの情報がインターネットであっという間に広がり、日本でも「ホ・オポノポノ・ムーブメント」が一気に広がっているわけです。

 (「『ガン呪縛』を解く」の著者。千島学説の研究者として知られている稲田芳弘氏のメルマガから引用しました)
                

 

お母さんのために歌って(16−10−7)

◆「お母さん私のために歌って!」

 おめでとう!花嫁姿の貴女を見ていると、二十七年前のことがうそのように思われてき
ます。貴女の耳が聞こえないという診断がくだされた日の深夜、お母さんは貴女を抱いて線路に座り込んで死を覚悟したのです。「耳が聞こえない」という宣言は、お母さんにとっては、いや私にとっても考えだにしなかったことでした。

 貴女には話していませんでしたが、お母さんはシャンソン歌手でした。私はその伴奏をつとめるピアニスト。私たちはともに音楽大学を出たんだよ。知り合って、すてきな恋愛 をして、結婚して、貴女を授かって、いつどんなときでも音楽に包まれていました。ところが三月に貴女が生まれて、その年の秋も深まる十一月頃に貴女の様子がおかしいのに気がついたのです。

 貴女の背中ごしに声をかけても振り向こうとしない。私がわざと激しくピアノを叩いて も怯えることもなくニコニコしている貴女でした。「まさか?」祈るような気持ちで大学病 院の精密審査を受けた結果が「お嬢さんは先天性ろうです」の宣告でした。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた私たちは神を恨み、運命を呪いました。
 その日の夜、お母さんは貴女を抱いていつの間にか家を出ていました。必死で深夜の街を探しまわり、お母さんと貴女の二人を見つけたのは線路の上でした。引き戻そうとしたとき、お母さんは「死なせてください。この娘に申し訳なくて・・・、私のせいです。この娘と死なせてください」と叫びました。そのときです。眠っていた貴女が目を覚まして微笑んだのです。天使のように・・・・・。

 貴女の微笑みを見た私たちは声を上げて泣きました。泣きつづけました。そのとき私たちは誓ったのです。「心の豊かな、笑顔のすてきな優しい娘に育てよう」と深く心に決めました。

 それから二十六年。貴女は私たちの願いをかなえてくれた。
<私タチハ愛シアッテマス。結婚サセテクダサイ>
と彼と二人でそう言ってきたとき、私たちはあの日以来の涙を流しました。

 ところで、貴女にお願いがあります。実は、お母さんは貴女の耳が聞こえないとわかった日から歌手をやめました。私もピアノを弾くことをやめました。だから、貴女は私たちが音楽家であったことを知らなくても当然です。私たちが音楽にふれることは貴女に申し訳ないと思っていました。でも、貴女が羽ばたいていく今、私はお母さんに「もういいだろう」と言ってあげたい。貴女の幸せを願って歌うことが貴女の、私の、お母さんの喜びにつながると信じます。貴女からお願いしてほしいのです。

<ワタシノタメニ歌ッテ!>と。
きっと歌える。唇を読みとろうととする貴女の眼差しにお母さんは心を込めて歌うと信じています。
 ピアノは・・・・・もちろん私だよ。
   (以上、丸山浩路著より)

 

 

きいちゃんのこと(12−12−13)

 石川県の養護学校の先生である山元加津子さんは、養護学校の生徒一人ひとりの個性を見つけ、育て、開花させる天使のような人。私の尊敬する袋井市の公認会計士、小林正樹先生が、この山元先生をお招きし、講演されたときに講演録から「きいちゃんのこと」を転載します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 では、次に、きいちゃんっていう女の子のお話をします。きいちゃんも吉川くんの同級生で、その時に出会ったお子さんです。で、きいちゃんも小さい時高い熱が出て、手とか足が不自由でした。たとえば、コップを取ろうと思ってここに持ってこようとしてもこの調整がうまくいかないであっちへ行ったり、向こう側に行ったり、手前に行ったり、そういうふうになってしまうっていう障害をきいちゃんは持っていました。

 で、きいちゃんは、どちらかと言うといつも暗い感じのするお子さんでした。なにかいつもうつむいていて元気もなかったですけど、ある日、とっても嬉しそうな顔で、「山元先生!」って、元気に飛び込んできてくれたんですよ。職員室に・・・。

 どうしたんだろう?と思って「きいちゃん、どうしたの?」って言うときいちゃんは、「お姉さんが結婚するのよ!今度、私、結婚式に出るのよ!」ってすごく嬉しそうだったから「そう、良かったね!」って、私も嬉しくって・・・。きいちゃんは「ねえ、結婚式ってどんななの?私、どんな洋服着ようかな」ってとても嬉しそうだったんですね。ところが、一週間程したら今度はきいちゃんが、教室で泣いている姿を見つけました。で、「きいちゃん!どうして泣いているの?」って言ったら、「お母さんが私に『結婚式に出ないで!』って言うの。私の事恥ずかしいのよ。お姉ちゃんばっかり可愛いんだわ!私なんか生まれなきゃ良かったのに・・・」って、そう言って泣いてたんです。

 私、どうしたらいいんだろう?お母さんはお姉さんばっかり可愛がるような方じゃないんです。どちらかというと、かえってきいちゃんの事を本当にいつもいつも可愛がっておられて目の中に入れても痛くないって思っておられる様な方でした。もしかしたらきいちゃんが結婚式に出る事で何か・・・。お姉さんが肩身の狭い思いをするんじゃないかという・・・。そういう事をお母さんが考えられたのかなって私、思ったりしてました。

 で、きいちゃんに何言ってあげていいのか解らなくて、ただ、「お姉さんに結婚式のプレゼントを一緒に作ろうか?」ってそう言ったんです。で、私、生まれが金沢なんです。金沢の山の方に、「和紙の里」っていうところがあるんですけど、そこで染めを習ってきて、さらしの生地ですごい安いのなんですけど・・・。私達お金がなかったので、そのさらしの生地を買ってきて、きいちゃんと一緒にそれを夕日の色に染めたんです。

 で、それでお姉さんに「浴衣をね、縫ってあげよー!」って提案したんです。でも、きいちゃんはね、さっきお話したみたいに手が思うようには動かないところがあるので、「きっと縫うことはむつかしいだろうなぁ。」と思ってました。でも、「一針でも二針でもいいし、ミシンもあるし、私もお手伝いしてもいいし」と思ってたんですね。

 でもきいちゃん、すごく頑張ったんです。最初はね、手にいっぱい豆、血豆ができるくらいにね、刺して、ほんと、血がいっぱい出たんです。それでも構わず練習して、学校にいる間も、それから、いつもおうちから離れて学園ってところで生活してたんですけど、学園に持って帰ったりして本当に一生懸命、一生懸命、ほとんど一人でそれを仕上げました。

 とても素敵な浴衣になったので、急いで宅急便でお姉さんのところに送ったんです。そしたら、お姉さんから電話がかかってきて、「結婚式にね、出て下さい。」って言うんです。きいちゃんだけじゃなくて私も・・・。お母さんの気持ちも考えて「どうしようかなー?」と思ってお母さんに電話したら「姉がどうしても出てほしいと言って聞かないんです。それがあの子の気持ちだから出てやって下さい。」っておっしゃって、きいちゃんに聞いたら「私も出たい」って言うので、それで出ることにしました。

 お姉さんはすごく幸せそうでした。で、とってもきれいだったけど・・・。あの、きいちゃんの姿を見て何かヒソヒソお話をされる方がおられるので私はきいちゃんが「どう思っているだろう。」「来ないほうが良かったんだろうか。」って思ってたんです。

 そんな時にお色直しから、扉を開けて出てこられたお姉さんはびっくりした事にきいちゃんが縫ったあの浴衣を着ていました。私はすごく感激しました。だって、・・・。 

 結婚する時ってみんなね、ずっと前から楽しみにしてお色直しの洋服はあれにしようとかって決めるものじゃないですか。それなのに、

 「あー、浴衣を着て下さったんだ。」と思ったらすごくすごく嬉しかったんですね。で、お姉さんは、旦那さんになられる人とマイクの前に立たれてそして私達をマイクの方に呼んで下さってお話をされ始めたんです。「この浴衣は私の妹が縫ってくれました。私の妹は小さいとき高い熱が出て、手足が不自由です。でも、こんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。妹は私の誇りです。」って、そう話されました。「高校生でこんなに素敵な浴衣を縫える人が一体何人いるでしょうか?妹は小さい時に病気になって家族から離れて生活しなければなりませんでした。私の事を恨んでるんじゃないかな?と思った事もありました。でも、そうじゃなくて私のためにこんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。私はこれから妹の事を大切に誇りに思って生きていこうと思います。」

 そしたら会場からすごくすごく大きな拍手がわいたんです。そして、きいちゃんもすごく嬉しそうでした。で、私は後で、「どうしてきいちゃんのお姉さんがああいう話をなさったのかなぁ?」と思いました。 もしかしたらきいちゃんは・・・。

 今までお姉さん自身「何もできない子」っていう思いできいちゃんを見ていたそうです。でも、そうじゃないって解ったときに「きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきた。これからもきいちゃんとして生きていくのに、もしここで隠すようなことがあったらきいちゃんの人生はどんなに寂しいものになるんだろう。そうじゃない。この子はこの子でいいんだ。それが素敵なんだ。」って言うことをおっしゃりたくて皆さんの前で話されたのかなって思いました。「なんて素晴らしいんだろう。」と私は思いました。

 で、その時に私は「自分は教員だ。」という思いをやめようと思いました。「人間は人と人とがいて係わりあいながら、学びあいながら生きているんだ。それがたとえ学校であっても同じじゃないか。自分が教えようとかそういう思いでは何も変わらない。私は今、教えてもらうことばかりだし・・・。」と思っています。…中略…

 ところで、お母さんはあの後、私に何度も「ありがとう」と言って下さいました。きいちゃんがお母さんに、「おかあさん、私、幸せ。生んでくれてありがとう。」ってそういうふうに言ったそうです。でも、「私は何もしなくってかえって私こそあんな素敵な場面に居合わせて貰えたことを本当にありがたい。」と思っています。きいちゃんはそのことがあってから、とても明るくなりました。そして、「私は和裁を習いたい。」と言ってそれを一生の仕事に選んだんです。 

ここから先は山元先生のHP「たんぽぽの仲間たち」をご覧あれ
http://www3.justnet.ne.jp/~kakko/

 

白木流奈くんのこと

 先天的な障害児として誕生した白木流奈くん(現在8歳)の文章とホームページを紹介します。ぜひ一度、覗いてください。人間の能力の絶大さ、神秘さにびっくりします。

 彼は1990年横浜生まれ。極小未熟児、先天性腹壁破裂の状態で生まれる。生後2週間で3度の手術を受け、脳に水がたまり、圧迫されたため、脳に損傷を受け、脳障害となる。新生児痙攣、点頭てんかんの発作を起こす。発作の治療による副作用で白内障となり、両眼のレンズを摘出、未だしゃべれず腹這いもできないが、 1993年よりドーマン法のプログラムを開始してしている。字は書けないが、五十音の文字盤を指して文章を作り、自分でホームページを持つ。

 彼の文章から。
「私は生まれた。私が生まれた日、嵐が人々に振り掛かった。母には会えず、私は救急車でマリアンナ病院の救急センターに運ばれた。私はすぐ箱に入れられ、手術の準備をされた。私は生きられるだろうか? 言葉にならない不安が心をよぎる。暗い世界から、光あふれる暖かい世界にやっとでてきたのに!」(天明注:6歳の時の文章から)

 彼が言葉の存在を理解したときのこと
 「世界はここにある。そう名乗りを上げたのは、ある一冊の本だった。ああ、光! 私は本屋が光って見えた。ここはたくさんの記号の洪水だ。私の求める世界、出航を待つ船。私を乗せる準備はできているのかしら? 母はついに見つけた。私を世界に誘う船になる本を! 記号には法則があった。それこそが、私の世界を示すキーワードだった。法則、『文字』という法則。乾いた空気、のどを抜ける。潤いが欲しい。ジュースの香り、果物のしぼり汁。かすかに湧く希望のように、脳いっぱいに広がるフルーティな光。のどを潤すジュースのようだ。『文字』、脳に行き渡るジュース。母が見つけたのは、世界! 世界とは文字を知ることにより広がる。愛すべき人々との接点が、今、開こうとしていた」(天明注:6歳の時の文章から)

  これから先はこちらのホームページをごらんください。 http://www2.odn.ne.jp/luna

 

 

 


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